2005年秋ごまコンまとめ

こちらも今更ですが。


2005秋ごまコンのまとめの様な文章を書こうと思ったんですが、書いてみたら、一般性ゼロのごっちんとごまコンへの極私的な思い入れだけの文章になってしまいました。セットリストや演出や楽曲等の話は一切無し。なので、多くの方はこの文章を読んでも納得も共感も出来ないと思います。むしろ「何を勝手な事ばかり言ってるんだこいつは」と呆れるんじゃないかな。

でも、ここでバランスやら客観性やらに配慮した文章を書いてみても、自分の感情に嘘を吐いている気がしてなりません。なので、文章の筋道の歪みがそのまま自分の内面の歪みを反映しているって事で、感じたままを書きました。

強いて言えば、初日公演に否定的な事を書いた以上、その落とし前と言うか、まとめの文章を書いておくのは義務だろうとの思いが背中を押したかな。
このサイトではごっちんに関してはある程度オープンに書いていこうと思っているので、「ごまコンの変化」という重要なトピックについてうやむやにしてしまうのはやっぱり違うよな、という思いもありますし。
そしてもちろん、少しでも誰かと共有できるものがあれば。


そんな文章でも良いという奇特な方だけ御笑覧下さい。



05秋ごまコンに感じたズレ

今回のツアー、何がしんどかったって、コンサートを通じてごっちんを感じることが出来なかった。これがしんどかったのです。もちろんごっちんの気合いはビンビン伝わってきたのだけれど、それは私が良く知るごっちんではなかったんです。
03秋ツアーでは、多分ほとんど全ての観客がごっちんに対してありえないくらいの親密さを感じることが出来た、これが最高でした。あの時感じたごっちんと、今目の前にいるごっちん。それがあまりにも違ってしまっていて、今目の前にいる「はたちになった大人の」ごっちんは素晴らしい、でも自分はシンクロする事が出来ない。その戸惑いというか歯痒さがしんどかった。

なんていうのかな、中学時代仲良かった子と数年ぶりに再会したら、なんとなく噛み合わなかった、こんなはずじゃないのに、みたいな。

彼女が変わったのだとしたらそれを受け止めて付いていく、それがヲタの甲斐性だって事は分かります。でも、私にとって03秋ツアーの日々っていうのは余りに甘美で、忘れ難くて。その関係性が突然変わってしまった様に感じられて、ショックで、気持ちの持って行き様がなくて、寂しかった。

そんな時に「鼻をかんだら 思い出たちにバイバイして 帰るね Thank you memories」という歌詞に思いきりシンクロしてしまったものだから、思わずヲタ卒してしまいそうになってしまいました。「(ごまコンの)思い出たちにバイバイして (一般社会に)帰るね Thank you memories」。危なかった。

千奈美に、そんな私をこちら側に引き留めてくれたのが、10月2日娘。コン大阪公演。怪我したよっすい〜をフォローしようと120%の力を発揮する娘。さん達の素晴らしい姿でした)

なので川口遠征の最大の動機は、「スッピンと涙。ごっちんを感じたい」という事でした(今回のツアーは初日の大阪公演と、千秋楽のひとつ前の川口公演に参加しました)。
もちろん「今回ごっちんやスタッフが何を目指したのか確かめたいし、それに納得したい。それを肯定したい。そしてなによりコンサートを楽しみたい」、そういった動機もありました。
けど、それよりも大きかったのが「今自分の中で最もシンクロ率の高いスッピンと涙。で、ごっちんとの間の失われた回路を回復したい」。これでした。



そして川口公演。シンクロしきれませんでした。
ごっちんの気持ちの入りっぷりはそりゃあ素晴らしかったです。どれだけ言葉を尽くしても表現なんて出来ない程に。ただひたすら圧倒されるのみ。でも、私の中で何かが微妙にずれていたんです。

私が思う「スッピンと涙。」って、自分を抑制する事に長けた女の子が別れの悲しみを静かに味わう、と、抑えていた感情が突如吹き出して涙が止まらない。そこで自分が別れた恋人の事をどんなに強く思っていたか改めて思い知る。でも彼女は激情を抑え込み、感謝の言葉と共に恋人への思いを断ち切る。そんな歌です。
歌う上でのポイントは、静→動→静の起伏の表現。訥々と歌っていたところ、最後のサビ(「スッピン涙 止まらないみたい もっと好きと言えば良かった」)で感情が決壊し、でも即座に想いを抑え込んで静かにまとめる(「鼻をかんだら 思い出たちにバイバイして 帰るね Thank you memories」)。この荒技をいかに自然にやり遂げるかが、この歌のキモだと思います。

で、川口公演でのごっちんは、最後のサビの部分を前のめりになって、殆ど「絶唱」と言って良いくらいのテンションで歌いきりました。シャウトしました。

それは私には、あまりにやりすぎに感じられました。「『スッピンと涙。』ってそんな歌だっけ・・・。そこまで激しく声を張り上げる歌じゃないんじゃないのかな・・・」。そんな事を思ってしまい、シンクロしきれませんでした。

歌いきった後、激情を抑えこむかの様に俯いたまま動かないごっちん。鳴りやまない拍手と歓声。面を上げたごっちんの表情には崇高ささえ感じられました。怒濤のごっちんコール、セクガイ、スクランブル。沸点に達した会場は終演後もごっちんコールが鳴りやまず、スタッフさんも会心の笑顔。そこには予定調和やお約束なんかではない、腹の底から沸き起こった熱狂が波打っていました。

その熱狂に心地よく身を委ねながら、それでも私は「何かが違う、何ががずれてる・・・」と感じてしまったのです。



理屈を言えばこんな具合でしょうか。
激しさを身の上とした従来のごまコンからの脱却を目指した今回のツアー。戸惑いを感じながらもその変化を受け入れたかった私は、「新しい後藤真希」を確かめ、感じたかった。そのランドマークが「スッピンと涙。」。でもこの曲でのごっちんの歌唱は「激しさ」に大きく振れたものだった。それが私には、ごっちんの挑戦が結局従来のごまコン路線に収斂してしまった様に感じられた。それでは今回のツアーって一体なんだったの・・・?

もちろん「スッピンと涙。」以外にもたくさんの歌を歌っている訳で、この一曲だけでどうこういうのは明らかにバランスを欠いた話です。でも、上でも書いた様に私の内面ではこの曲が過度にフレームアップされており、飛び抜けて重要だったのです。
なので、この理屈に客観的妥当性はありません。100%私の主観です。



そういえば、昼の部のスクランブルでもそうでした。

突然大恋愛してみたいと
隣の人もあの彼女も思ってる?
信号が青色に変わったけれど
いつもの交差点
すばらしい景色に
変えてみたい

これから始まる大恋愛の予感に胸を震わせる女の子。その願いが叶えば目の前のありふれた景色も素晴らしいものに変わるはず。それはごっちんの前に拡がる素晴らしい未来をも確信させる、大事な大事な歌。そしてもちろん、あの03秋のラストを飾った歌でもあります。
私がこの歌で一番好きな所は、最後の最後、ごっちんの伸びやかな声が冴え渡るフェイクです。その瞬間、ごっちんを強く感じる事が出来るはず。そう期待していました。
が、そこでごっちんは「川口のみんな、今日はほんとにどうもありがとー!!!」と叫びました。

ごっちんの表情は本当に晴れやかだったし、客席も大盛り上がり。
でも、私はその幸福な波に乗り損ねてしまいました。
あんなに悲しいスクランブルは初めてでした。



「重箱の隅つついて、なんでそこまで必死に否定しようとするの?」と感じたあなた。あなたは正しい。

結局私は今回のごまコンを認めたくないのです。ごっちんが私の見知った姿から変わってしまう、新しい場所へ歩みを進めてしまうのがいやなのです。あの親密さが形を変えてしまう事に耐えられないのです。ずっといつまでも03秋の頃のごっちんでいつづけて欲しいのです。



ごまコンの熱狂に娘。の再来を見ていた

前々から気になっていて、もしかして、と思っていたけれど、やっぱり違うよなと思ったりしていた事があって。
古参ヲタのサイトの過去ログを漁って2003年春秋のごまコンの感想を読んでいると、いくつかのサイトである共通点が見られます。曰く、「やっぱり後藤ってすごかったんだ」「あの日の熱狂は嘘じゃなかった」「復活」「あの日のモーニング娘。が帰ってきた」「失望して去っていた仲間達、騙されたと思って見に来てくれ。ここには俺達が大好きだったモーニング娘。がいるから」etc、etc。
彼らはごまコンに在りし日のモーニング娘。の再来を見ていたのです。なんだかわからないけどとにかく凄い、矛盾するもの同士が平気で同居している、首根っこ掴んで振り回される様な熱狂、なにかとんでも無い事が起こっている気がする、とにかく今参加しとかなきゃ損だ!そしてその熱狂を巻き起こすのは「あのモーニング娘。」のエースだった後藤真希。2003年と言えば、飛ぶ鳥を落とす勢いだった娘。にも本格的にブレーキが掛かりだし、松浦・藤本・メロン・ソニンといった周辺領域が躍進しだした時期。彼らの喜びいかばかりか。



私はごまコンはごまコンとして、なにかの代替物としてでは無く、純粋にごっちんのコンサートとして楽しんでいたつもりでした。そしてその純粋性は、「ごまヲタ」という私のアイデンティティーの確かさにも関わるものです。なので尚更、「自分はごまコンに娘。の替わりを求めていた」なんて認める訳にはいきません。

でも今回のツアーを肯定したくない自分を発見した時、私は自身のごまコンへの熱狂の何割かが「失われた娘。の熱狂の代替物」としてのものだった事を認めざるを得ませんでした。

「そんなのどうでもいいじゃん。03秋、楽しかったんでしょ。だったらそれでいいじゃん」と仰るでしょうか。でも、私には結構大事なことなんですよ。そんな「不純」な気持ちではごっちんに顔向け出来ない。キモヲタマジヲタとしてはそこに拘ってしまうのです。



ごまコンの変化=ハロプロの変化

私がハロプロに求めた最大のものは「熱狂」です。「熱=エネルギー」、「狂=異形性や歪み」と言っても良い。ASAYANではアイドルがアイドルとは思えないえぐい表情を見せる。ラブマやちょこLOVE、ジャンケンぴょんなんていうふざけた楽曲が一世を風靡する。辻ちゃん加護ちゃんはゴールデンタイムでやりたい放題。あらゆる意味を蹴散らかしてしまう熱狂。

ごっちん絵日記やらデコ出し自転車で「特等席」歌ってた娘が、「セクガイ」や「溢れちゃうBE IN LOVE」では「ゴマキ」っぷりを見せつける。公演を重ねるごとに進化する奇跡、有り得ないような一体感、どこまでも行けると思わせる高揚、世界の隅々まで光で照らし出される様な「スクランブル」。
私にとってごまコンは、つんく♂先生抜きのつんく♂マジックでした。

何度か書いてきた事ですが、私は今年のハロプロは「現象から人へ」という流れがより一層ハッキリした年だと思っています。つんく♂マジックに首根っこ掴んで引きずり回される「現象の時代」から、メンバーひとりひとりへの思い入れを胸に、じっくりしっかり向き合う「人の時代」へ。娘。や松浦、メロンが先行したその道をごっちんも数年遅れで追いかけ始めた。その現れが「3rdステーション」であり、05秋ごまコンなのでしょう。

私は再三「3rdステーション」に対する不満を漏らしてきました。それは私にはこのアルバムが「良くできたJ-POPのアルバム」以上のものには思えなかったからです。もちろん、このアルバムが好きだという方がたくさんおられる事は知っています。ですが、私がハロプロに求めた「熱狂」、特に「狂」が感じられない、それが物足りなかったのです。
誤解を恐れずに、思い切って言えばこうなります。
「良い曲聴きたくてヲタやってる訳じゃないんだけどな」



このアルバム、そして今年のごまコンは、昨今のハロプロの変化の典型なのでしょう。良きヲタならば、ごっちんの新しい挑戦を歓迎し、力強く肯定するべきなのでしょう。ですが、私には古き時代のハロプロ、あるいはつんく♂という一種狂った世界からの離脱があまりに唐突になされすぎた、その変化の過程を共有しにくい、故に受け入れ難く感じてしまうのです。別の言い方をすれば、「3rdステーション」や05秋ごまコンは、過去を振り切るだけの速度を獲得し得なかった。少なくとも私にとっては。

私が今年のごっちんに対して感じた戸惑いや歯痒さは、ここしばらくのハロプロの変化に対して感じたそれと、おそらくイコールなのでしょう。ハロプロ全体が熱狂の度合いを弱めていく中で、私にとって最後の砦だったごまコン。そのごまコンの変化は、ハロプロの不可逆的な、決定的な変化を受け入れる事を私に迫ります。私はそれを受け入れたく無かったのだと思います。



望む事

私は、ごっちんハロプロ的熱狂と心中する事を望んでいるわけではありません。ただ、彼女の潜在能力を十全に発揮しようとすれば、どうしたって「ハロプロを出る」という選択肢を考えざるを得ない。そしてその実現可能性は殆どゼロに近い。この辺はさんざん繰り返された話ですが。
ひとつの活路として、「外部のミュージカルへの出演」という道はあるんじゃないか、とは思っています。「笠置シヅコ物語」とかじゃなくて、若い才能によって創られる、もっと尖ったヤツに!そしてその客席で「やっぱりごっちんてこんなに凄かったんだ・・・」と打ちのめされたい。それが今の私の希望です。

けれど、あの事務所がなかなかそんな気の利いた事をしてくれない事はよく分かっているわけで。ごっちんハロプロにとどまったまま、自らの表現を磨いてゆく。そんな困難な道を選ぶのでしょう。



プッチモニダイバーV3の最終回、ごっちんはこんな話をしていました。

後藤「わたしはー、はっきり言ってー、冷めてないよ」
保田「ははは」
後藤「クールでもないよ」
保田「うん、知ってるよ」
後藤「セクシーでもないよ」
保田「うん、知ってるよ」
後藤「うん、子供なんだよ」
保田「うん、知ってる。これ、たぶんね、ダイバーを聴いてくれてたみんなにはわかってもらってたと思うよ」
後藤「うん、それがうれしい。」

これを指して「ごっちん人間宣言」と言った人がいましたが。

03秋のMCで「セクシーに!情熱的に!」と吼えていた彼女は今、「はたちになった、後藤真希です」と静かに語りかける様になりました。
そんな振る舞いが彼女にとってとても大切な試みである事を知りながら、それでも私はそこに喪失感を感じずにはいられません。多分これから当分は、こんなグチャグチャした思いを抱えながら彼女を見続ける事になるのでしょう。

それでも私は、そんな彼女の姿をしっかり見続けたい。私の期待する形とは違うかもしれないけれど、彼女はきっとすごいものを見せてくれる。そう信じているからです。