なぜ私は卒コン後ネガになったのか

aibomb2005-05-14

卒業コンサートが終わった後、いまいちスッキリしない気分でした。
帰り道、どんどんネガになりました。
コンサレポにもそれは現れています。
なんでかって事を考えてみました。


公式には、「石川は娘。で学ぶべきことは吸収しつくした、さらに個性的なアーティストに成長する為に卒業する」とされています。
確かに「イマイチな娘が頑張って成長して輝く」という娘。物語を彼女ほど体現した娘はいないし、「石川はもはや娘。そのもの」とさえ言っていい。
娘。のメンバーとしてはてっぺんまで上り詰めたと言っても言いすぎではないでしょう。
娘。やってる姿をもっと見ていたいし、もうしばらく後進の指導に当たって欲しい気もしますが、もう卒業していい頃合かもしれません。
残されたメンバーからすれば、頼れる先輩の代わりに自分達がしっかりしなきゃならない。成長するチャンスです。
ですから私は、石川の卒業を祝い、残った娘。たちへ励ましの声援を送るべきなのでしょう。


もちろん、そんな理屈だけで納得出来る訳もありません。
私にとって石川の卒業は、「モーニング娘。石川梨華を見る事が出来なくなる」というだけにはとどまりません。
大好きだった娘。を支えたメンバーがまたひとりいなくなる、幸福な記憶を引き出すキーとなる娘がまたひとりいなくなるという事です。
大好きだった娘。が失われる、という事です。
それは私に痛みをもたらします。

卒業コンサートでその痛みはピークに達するはず。
しかし、もしその場で石川や娘。たちが号泣し、私の感情も決壊したならば。
その時途方もないカタルシスと共に痛みは昇華され、私は石川梨華の卒業を受け入れられるだろう。
そう期待(!)していました。


しかしそうは問屋がおろしませんでした。
私が感じたのは、あるべきものがそこにないが故に生まれる、鈍い痛みでした。
実は石川の卒業とは、辻と加護の卒業で(私にとって)一旦終わった娘。物語のエピローグ(後日譚)でもあります。
よって、石川卒業によって失われるものの多くは、(私にとっては)既に辻と加護の卒業で失われていたのです。
故に、私は喪失の痛みすらはっきりとは感じることが出来ないのです。
そこにあるのは、慢性化した、ぼんやりとした痛みです。


もちろん、ステージで行われるライブは素晴らしいものでした。
気合がみなぎりスピード感溢れるライブに5・6期の成長を感じ、実に頼もしい気持ちになったものです。
石川は最後まで笑顔で卒業していきました。メチャクチャかっこ良かったですよ。
しかし、その底抜けの明るさの中に自分のこの鈍痛をどうあてがったら良いのか、私は戸惑ってしまったのです。


結局私は石川卒業という不条理を持て余し、不全感を感じ、そして大騒ぎするヲタへの不快感をきっかけにネガになったのです。
卒業せんでええやん、俺はモーニング娘。石川梨華が見たいねん、娘。やりながら美勇伝でなんであかんねん。
そしてそんなネガな気持ちに「もう石川梨華は娘。のメンバーではない」という事実がするりとフィットしたのです。
事ここに至りようやく、「大好きだったモーニング娘。が失われた痛み」が私を襲ったのです。
彼女たちの未来に対する不安が追い討ちをかけます。
その時私は大東京の迷路の様な地下街にただ一人。どうやったら地上に出れるの?
カタルシスもクソもありません。


美勇伝も娘。も大丈夫!春ツアーと武道館でのパフォーマンス見ただろ!矢口が抜けてもあれだけの事やっちゃうやつらだよ!おまえは彼女達を信じることが出来ないのか?
と言う人もいるでしょう。
でも、いかな彼女たちの力を以ってしても、先輩たちの偉大さに比例して強烈なこの痛みばかりは如何ともし難かった。少なくとも私にとっては。


卒コンから数日経って痛みはまた鈍痛に変わり、まだ私のなかにわだかまっています。
このわだかまりを抱えたまま、私は娘。と美勇伝石川梨華を応援していきます。
彼女達を信じられる様、5・6期と三好・岡田を今までよりちゃんと見ていこうと思います。


ごっちんの卒業が発表された時も、私は痛みを感じました。
けど、彼女の凄まじいソロコンサートを見てからは、「ごっちんは卒業してよかった」と心から思えました。
いつか「石川はあの時卒業してよかったね」と言える日が来る事を願うばかりです。